エスカレーター型人間〈第一回〉
現代教育の誤謬
外山滋比古
いっぱしの知識人でさえ、小学校の教育と大学教育のどちらが重要か、と訊ねられれば、人をバカにするな、大学にきまっているじゃないかと言いすてるだろう。そんなこと問題にするのが、そもそもおかしい、というのが一般であろう。
小学校は読んで字のごとく、すこししか学ばない。中学校へは






このごろの家庭では、大学卒の人を高学歴とは考えなくなった。高学歴は大学院を修了した人だと若い母親は思っている。そういう人たちは、大学卒でなれる、小、中、高の先生の学力に不安をいだく向きがふえ、教員を萎縮させている。こういう高学歴信仰は教育の普及した近年に生まれたもので、いかにも新しいように思われているようだが、実は、古い教育思想を勝手に喜んでいるに過ぎないのである。
いまのような公教育が始まってからまだ二百年にもなっていない、ということも知らない人が多い。
もちろんはじめはヨーロッパである。曲がりなりにも宗教から独立した初等学校が生まれたのは十九世紀前半のことである。外国の真似をするのを国是とした明治の日本である。ヨーロッパに遅れることわずか、明治五年には学制がスタートした。おどろくべきはやさで、小学校が各地にできた。中学校などへ入るものは例外的であったから、教育は小学校中心に行なわれていたと言ってよい。
家庭が豊かで、勉強好きで成績のよいものだけが中学校、女学校へ入ったが、一般的ではなかった。農家などでは、学校へ行くと口ばかり達者になって働かなくなる、と言い進学を嫌った。

そういう時代にあっても高学歴信仰がなかったわけではない。それどころか、
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高学歴信仰が誤っているのではないかという反省はずっと見られなかった。高等教育が広い門になれば、下火になって当然なのに、敗戦後、一貫して高まるばかり。かつては進学者のほとんどなかった小学校が、義務教育化された中学校へ全員進学、その中学を出ると十人に九人は高校へ行く。それを教育が普及したと、みんなで喜んだのは、考えてみると、滑稽である。
とんでもない間違いをしているのである。年齢が高くなればなるほど重要な教育が行なわれるように考えるのは、古い考えである。年齢が高くなればなるほど教育効率は悪くなるということを社会全体が知らないのか、あえて無視して、高等教育を初等教育より価値あるものと思い込んできたのかわからない。日本だけのことではない。世界中、どこの国でも同じ思想にとらわれている。
人間の教育は小学校まで待っていてはいけないのである。早ければ早いほどよい。昔の人は


教育は生まれてすぐ行なわれなくてはならない。ほかの高等動物はインプリンティングという早教育を行なっている。親が子につきそって実地教育を行なう。短期間で完了、親は子ばなれ子は親ばなれをし独立する。
万物の霊長などとうそぶいているくせに、人間はインプリンティングをしない。
新生児はおどろくべき能力のかたまりのようなもの。生まれつき授かっている天賦の能力を天才と言うことが許されるならは、人間は、生まれた直後のある期間は、天才的である。ただ、天才は放っておくとやがて消える。賞味期間が短い。せいぜい五十ヵ月くらいで、大半消滅する。急がないといけない。熱いうちに打てというのは一部当っているが、打て、というのがよくない。内にひそんでいる能力を引き出す。それが教育である。英語で教育をあらわす語、educationは




聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚、第六感などにわたって、生まれて間もない子はまさに天才的能力を内蔵している。インプリンティングのように外から力を加えて


いまのところ、そういう育児が考えられていないから、天才はどんどん消えていく。そのころになって、こどもを集めて、能力をひき出したり、伸ばしたりはしないで、


非常な好運によって、もって生まれた天賦の才能をまわりからつぶされていて、なんとか育てることのできたのが、本当の天才になることができる。それは奇蹟的例外だから、それこそ暁天の星よりもすくない。
もっとも、そういう好運の天才児も年齢とともに力を摩滅させるようで、


まるでなっていない早教育の中で、いくらか才能をひきだすことをしているのがことばである。こどもは、ことばをまったく知らないで生まれてくるが、耳にすることばをひろって、言語能力を目覚めさせる。大人はこどものことばの天才を引き出すなどということは考えずに、しゃべっている。もちろんこども向きでない大人同士のおしゃべりも多く、決していいインプリンティグではないが、それでも子の才能は、ことばの能力を発現、伸長させる。日本で生まれた子は日本語を、英語圏で育つ子は英語を覚える。日本人の両親の子でも、英語のインプリンティングをすれば、英語が母語になる。まわりがいい加減なことばをつかっていても、こどもは、まっとうなことばを習得する、おどろくべきことである。
もうすこししっかりした幼児言語があれば、新人類が出現する可能性は少なくない。
ほかの能力はこの程度の育成さえおこなわれていないのだから、人間は宝をいだきながら、それを葬っている。もったいない話である。
いちばん大きな問題は、生まれながらもっている思考力、判断力、想像力などをほとんどまったくかえりみない、とくに考える力のない子にあふれるようになったことである。生まれて間もない子は、試行錯誤のくりかえしである。そのあいだに、価値あるもの、正常なもの、悪しきものなどを判断する力を磨いている。
それを学校へ行くようになると、すっぱり投げ出して、知識と幼い技術だけを教え込む。大学までほぼ同じことだから、人間にとって最高の能力である、思考力、判断力、想像力は枯渇してしまう。知識教育しか考えないのはたいへんな誤りであるが、知識万能の社会はそうは考えない。
そのいい例が、教師である。知識はあふれるほどもっているのに、しっかりした考え方ができない。それでいて威張っている。かつての




少子化が心配されている。それに対する対策も考えられているようではあるが、本当は人間教育ということがよくわかっていない政治家などは、金をばらまくくらいしか、なすすべを知らない。えらそうなことを言っている教育者、知識人も年齢が高くなるほど高級な教育ができるという逆ピラミッド型(


〈第一回・終〉
- 著者略歴
- 外山滋比古(とやま・しげひこ)
一九二三年愛知県生まれ。英文学者、言語論者、評論家。一九四七年東京文理科大学英文科卒業後、同大学院特別研究生修了。一九五一年雑誌「英語青年」編集長。東京教育大学助教授を経て一九六八年お茶の水女子大学教授。一九八九年同大学名誉教授。同年、昭和女子大学教授、一九九九年同大学退職。著書に、『人間的』(小社)、『少年期』(中公文庫)、『失敗の効用』(みすず書房)、『思考の整理学』(ちくま文庫)等がある。