1983年にオープンした東京・六本木のカルチャー・ビル、WAVEには大きなインパクトがあり、地下1階のシネ・ヴィヴァン・六本木は、六本木の交差点をはさんで反対方向にあったレイトショー専門館、俳優座シネマテンと並び、六本木の先駆的なミニシアターとなった。
シネマテンの方は『
ベニスに死す』(71)のルキノ・ヴィスコンティや『
眺めのいい部屋』(86)のジェームズ・アイボリーのように、華麗な雰囲気のある大人の映画を好んでいたが、シネ・ヴィヴァンのテイストはもっと前衛アート風で、最先端の文化を好む若い客層をひきつけていた。
劇場のオープンの頃の話が聞きたくて、塚田誠一元支配人と再会した。彼はこの劇場の初代支配人で、90年代後半は「キネティック」という自分の会社でヴィンセント・ギャロ監督の『
バッファロー'66』(98)の配給・宣伝を手がけ、記録的な大ヒットを飛ばした。キネティック時代にも取材をしたことがあるが、話を聞くのは本当に久しぶりだ。
まずは80年代にシネ・ヴィヴァンで上映された『
コヤニスカッティ』(82)や『
緑の光線』(85)の劇場プログラムを取り出すと──
「なつかしいですね……。あの劇場、今となっては、巨大ダムの下に沈んだ映画村ですよ」
六本木ヒルズとシネ・ヴィヴァンの関係についてそう語る。
前回、書いたように、かつてシネ・ヴィヴァンがあった場所は、今は六本木ヒルズというビル群に吸収されてしまったからだ。
「もっとも、ヒルズを建てる話は、あの当時から出ていたようで、WAVEは期限付きの建物だったようです」
シネ・ヴィヴァンの入ったWAVEの営業年数は16年と短く、世紀の変わり目の99年で閉館となった。
「もともとWAVEは音と映像の総合的なビルを作ろうということでスタートした建物でした。映画館のシネ・ヴィヴァンがあり、その上はソムリエ的な感覚でレコードを集めたレコードショップ、その上が録音スタジオ。そんな3つの構成でした。歌手のマイケル・ジャクソンが来日した時、WAVEを貸し切りで使って遊んだという話もあります。今となっては都市伝説みたいなものですが……。確かに他にああいうビルはありませんでしたよね」
どこか宇宙船を思わせる外観も含め、独特の雰囲気を持つビルだった。
「本当は池袋にあった多目的ホール『スタジオ200』をシネ・ヴィヴァンみたいな映画館にする話も出ていたんですが、当時の消防法では出口がふたつないと映画館として許可が下りず、ここでは講演つきの上映しかできませんでした。そこで他の劇場がやらない実験性と商業性を兼ね備えた映画館を、ということで、シネ・ヴィヴァンが誕生しました」
スタジオ200は、池袋の西武百貨店の中にあった多目的ホールで、他の商業劇場では上映できない貴重な映画の上映も行われていた。個人的に特に忘れがたい80年代前半のイベントのひとつにオーストラリアの新しい監督たちの作品を集めた「オーストラリア映画祭」があった。
後に『
いまを生きる』(89)や『
トゥルーマン・ショー』(98)のようなハリウッドのヒット作も手がけることになる(当時は新人の)ピーター・ウェア監督が若き日にオーストラリアで撮った傑作『
ピクニック at ハンギングロック』(75)も、そこで初めて紹介された。ピクニックに行った美しい少女たちが神隠しにあうという奇妙な実話をもとにしたファンタジーで、詩心をあふれる幻想的な映像に衝撃を受けた覚えがある。映画祭で評判を呼んだこの作品は、86年にシネ・ヴィヴァンでロードショー公開されている(配給は松竹富士クラシック)。
◉シネ・ヴィヴァン・六本木のパンフレットはB5判の大きさ。
シネマスクエア・マガジンと同様、雑誌風に号数が振ら れている。
2号目となる『コヤニスカッティ』の目次を見ても“雑誌志向”の意気込みが伝わってくる
スタジオ200という先鋭的なイベントホールの“さらなる進化形”として登場したのがシネ・ヴィヴァン・六本木で、
前回、紹介したようにジャン=リュック・ゴダールの『
パッション』(82)を皮切りに、最先端の知的なアート系映画が次々にかけられた(ヨーロッパ映画が中心だった)。
この劇場が最初に買って、配給も担当した作品はスイスの鬼才、ダニエル・シュミット監督の『
ラ・パロマ』(74)。当時は劇場が配給まで手がけることはほとんどなく、そんな側面だけを見ても、この映画館の先駆的な特質が分かる。『ラ・パロマ』は81年に東京で行われた「スイス映画回顧展」で上映されて反響を呼び、84年にこの劇場の7本目の上映作品に選ばれた。青年貴族と歌姫ラ・パロマの不思議な恋物語で、メロドラマとホラーと神話的な雰囲気がミックスされた通好みの作品だった。
「ただ、ヴィヴァンとしては、その後シネセゾン(西武流通グループの映画会社)ができるという発想がその頃はなくて、劇場の倉庫にフィルム棚まで作っていたほどです。ところが、シネセゾンができてからは、本部vs劇場マネージメント、配給vs興行みたいな関係になっていったんですよ」
本部とは劇場の方針をめぐって対立することもあり、某大手化粧品メーカーのCMを流すように要請があった時はWAVEの館長を味方につけて、申し出をきっぱり断った。
「幻想かもしれないけれど、シネ・ヴィヴァンはコアな映画ファンのための純粋な映画館であることをアピールしていました。そこでCMを流して小銭を稼ぐのと、劇場のブランディングを崩すのとどっちを取る?──と本部につきつけたこともあります。翌年、劇場がシネセゾンの直営になり、また劇場でCMをかける話が出ました。そこで最初だけはシネ・ヴィヴァンらしいことをやろうと考えました」
思いついたのが、『パッション』のゴダール監督がレナウンのために撮った
「BBNY」のCMを流すことだった。
「シネ・ヴィヴァンの最初の広告は、ゴダールのものをやらせてほしい、とレナウンの文化事業部にかけあいました。当時はそれくらい、つっぱっていました。映画館としては、唯一、とんがっていたというか、おしゃれな感じもあったかもしれません。気取っていたといえば、気取っていたかもしれないですが、それが個性にもなっていました」
そんなこだわりは劇場パンフレットにも出ていて、文字がぎっしりつまった読み応えのあるものが作られている。そこには当時、絶大なる支持者を誇った評論家の蓮實重彦と作曲家の武満徹の(今では考えられないほど)長い対談が、毎回、登場している。ちなみに『ラ・パロマ』をめぐるふたりの言葉を引用すると──
武満「〔この映画は〕誰が見ても面白い。〔中略〕ただ、映画をたくさん見ている人ほど、その面白さの度合いが深いだろうとは思いますけど」
蓮實「こういうことはあまり言いたくないですが、映画的素養がない人には観せるのが惜しいっていう思いはあります」
思えば、シネ・ヴィヴァンが登場した83年、出版界では20代の浅田彰の『
構造と力』(勁草書房)が学術書としては異例の15万部のベストセラーとなり、ニュー・アカデミズムの教養主義が注目されていた(蓮實重彦もその中心を担った評論家だった)。また、ファッション界ではコム・デ・ギャルソンの川久保玲やY’sの山本耀司が81年にパリコレのデビューを果たし、そのモノトーンのファッションが人気を博していた。最先端の知性やブランド服を身にまとうことがかっこいい。そんな時代の空気が流れる中、シネ・ヴィヴァン・六本木は“とんがった知性”が売りのミニシアターとして存在感を示し始める。
◉7号目となる『ラ・パロマ』のパンフレットより。蓮實×武満対談は、本誌の目玉といってよい企画で、表紙にも2人の名が記載されている。シナリオ採録ページの余白ひとつをとっても映画に付加価値をもたらそうとする姿勢が見てとれる
「ゴダールや〔アンドレイ・〕タルコフスキー、それに90年代はロシアの〔セルゲイ・〕パラジャーノフ監督の映画祭などもヒットしました。難解なのに、どうしてこういう映画が当たるのか、とNHKのニュースで取材されたこともあります。今と違うのは、ちょっとおしゃれをして、ちょっと背伸びする映画を見に行くという風潮があの頃はあって、その層をあおれば観客を集めることができたんです。“知らないことが時代遅れ”と思われるのが、いやだったんでしょう。今の若い人は知らないことは当たり前で、自分に合うか、合わないか、ということで選別していき、自分が分からないものは要らないと考えます。でも、あの頃は観客の知的好奇心をあおることで商業的に成立しました」
動員記録を作ったのが85年に日本公開されたスペイン映画『
ミツバチのささやき』(73)だった。めったに新作を撮らないことで知られる伝説の監督、ヴィクトル・エリセの作品で、製作から12年遅れで日本の土を踏んだ。スペイン内戦後の40年代が舞台で、その頃からフランシスコ・フランコの独裁政権が始まっている。
31年のアメリカのホラー映画『
フランケンシュタイン』を見て心を奪われる6歳の多感な少女の心理に当時の国の情勢を託しつつ、その日常生活が幻想的な映像も織り交ぜながら描かれていく。純粋さと奇妙な妖気をあわせ持つ少女役のアナ・トレントも話題を呼び、シネ・ヴィヴァンでは12週間上映で、6400万円(観客動員数は4万8000人)という興行成績を打ち立てた。
「映画館は185席で、週のアベレージはまだ落ちていなかったので、本当はもっと上映できたと思います。ただ、〔グループ企業の〕西友で作った『火まつり』(85、柳町光男監督)を上映するため、映画館をあけなくてはいけなくなり、12週で上映が終わったんですが、あのまま上映していれば7000万円はいったかもしれません。僕自身も特に思い入れのある作品で、自分の娘にアナを漢字にした名前〔有那(ありな)〕をつけたほどです」
『ミツバチのささやき』は多くの熱狂的なファンを生んだ作品であるが、私自身はこの監督とは強烈な“マイナス相性”のようで、見ていると体中の血がヒラヒラと逆流していくような生理的な反応が出て、正常な感覚を保てなくなる。彼が後に撮った10分の短編(『
10ミニッツ・オールダー/人生のメビウス』〈02〉の中の「ライフライン」)なども、映像の完成度はすごいと思いつつ、やはり体内の血が足から頭に向かって流れて行く……(このように特異な反応を引き起こすほどに、すごい才能を持つ監督ともいえるのだろう)。
極端な反応を促すヨーロッパ映画がこの劇場では数多く上映されていた印象があるが、スイスのフレディ・M・ムーラーが撮った『
山の焚火』(85)もそんな映画の一本だった。山奥で静かに暮らす両親と姉弟。姉はやがて口がきけない弟の子供を身ごもり、両親との穏やかな関係が崩れていく。神秘的、かつ神話的な世界が(セリフではなく)映像の力で語られ、鮮烈な美しさがあった。この作品も塚田元支配人のお気に入りの一本であるという。
「ああいう映画はプロットを見る作品ではないですよね。その空間の中に情感とか、詩情といった別の言葉が感じ取れます」
近年、スマートフォンなどの画面で映画を見ている人の姿も電車で目にするが、そうした小さな画面では読み取れない奥行きのある世界が『山の焚火』のような作品には広がり、観客もそんな映像に飲み込まれることを楽しんでいた。
「当時のシネ・ヴィヴァンは普通の商業映画館にかからないものに果敢に挑戦する映画館で、コンテンポラリーなアートと映画という方向を打ち出していました。今の時代ではむずかしいと思いますが、あの頃はこういうこともできました。それに海外の映画祭など買い付けの現場ではし烈な〔作品争奪の〕戦いを繰り広げていたものの、一緒に育った仲間たちもいましたしね」
そんな話をしながら、元支配人はパンフレットに載った写真に目をとめる。
「あ、彼女、どうしているのかな?」
写っているのは、『パッション』や『
カルメンという名の女』(83)といったゴダール作品に出演していたマルーシュカ・デートメルスである。今は名前を覚えている人も少ないと思われるが、当時は挑発的なエロスとエキゾティズムが魅力的なオランダの女優だった。
「うちの劇場で呼んで、一緒にやきとり屋に行ったこともあります。実はシネセゾン渋谷の当時の支配人も一緒にいて、彼だけ頬にキスしてもらったんです。うちが呼んだのに……と、相当むかついた覚えがあります(笑)」
先鋭的なアート館の根っこには、実は人間くさい情熱やエネルギーがあふれていて、それが見る側の好奇心をも刺激していたのだろう。
西武流通グループ(のちのセゾングループ)は他にもキネカ大森(84年)、シネセゾン渋谷(85年)、キネカ錦糸町(86年)、銀座テアトル西友(現テアトル・シネマ、87年)等のミニシアターをオープンする。そんな中でもシネ・ヴィヴァン・六本木は作り手の挑発的な姿勢がはっきり出たチャレンジャーであり、まさに80年代の「知」を代弁する劇場だった。