ミニシアター再訪

第2回

東京の港区・新橋の第一京浜国道沿いに「新橋駅前ビル1号館」という9階建ての建物がある。高度成長期の1966年に建てられた古いビルで、下のフロアには飲食店があり、上にはオフィスが入っている。

このビルの3階にかつて日本ヘラルド映画という草分け的な洋画配給会社があって、2階には子会社のヘラルド・エースが入っていた。

ヘラルド(開拓者)の名前の通り、機動力のある社風で、特にヘラルド・エースは81年の「シネマスクエアとうきゅう」の設立にも貢献している。

ビルの2階にはヘラルドの宣伝部にも愛されたビーフン専門店「東」があり、この店を訪ねるたびに今はなくなった会社のことが頭をよぎる。あの頃、若い宣伝部のメンバーたちはおいしそうに焼きビーフンを食べながら、ミニシアターの話で盛り上がっていた。

そんな風景が忘れられない私としては、ヘラルド・エースにいた人物に「シネマスクエアとうきゅう」の“はじまり”について語ってほしいと考えた。


「おひさしぶり!」

駅は中央線の荻窪だが、かつて新橋のビルで聞いていた声が聞こえてくる。

立っているのは80年代にヘラルド・エースで映画宣伝を担当していた寺尾次郎さんだ。今は字幕翻訳家となり、最近では『アーティスト』『ル・アーヴルの靴磨き』などの話題作も手がけている。そんな寺尾さんと2013年1月に再会した。

新橋の宣伝部で初めて会ったのは80年の暮れで、その頃の彼は『ジェラシー』(79)という英国映画の宣伝を担当していた。

「大学を出た後、映画が好きだったので、ヘラルドに入りました。『ジェラシー』は初めて宣伝を任された作品で、すごく思い入れがあります。昨年(2012年)、フィルムセンターで上映されたので久しぶりに見たんですが、今も好きな映画です」

宣伝マン時代を寺尾さんはそんな風に語り始めた。この映画は81年12月にオープンするミニシアター、「シネマスクエアとうきゅう」の記念すべき最初の作品に選ばれるが、そこにたどりつくまでの道のりは平坦ではなく、寺尾さんは1年という長い時間をこの映画と共に過ごすことになる。

当時、『ジェラシー』は一般受けしない作品と考えられていた。過去と現在の時制がバラバラで、まるでジグソーパズルのように複雑な映像構成だったからだ。物語も屈折していて、冬のウィーンを舞台に死と狂気がからまった破滅的なラブストーリーが展開する。

主人公は年の離れた夫と別れ、どこまでも自由に生きることを望む若い女性(テレサ・ラッセル)で、精神分析医である彼女の恋人(アート・ガーファンクル)は嫉妬ゆえに彼女を追いつめ、自殺未遂を図った彼女に残酷な仕打ちをする。やがて、ハーベイ・カイテル扮する刑事がふたりの空白の時間について調べ始める。

◉シネマスクエアとうきゅうのパンフレットは「シネマスクエアマガジン」と銘を打ち、
 雑誌の形態を思わせる通巻号数が振られていた
劇中にグスタフ・クリムトやエゴン・シーレの絵画、キース・ジャレットやトム・ウェイツの音楽などを散りばめ、フロイトの心理学の要素やウィリアム・ブレイクの詩も登場。観客の知的好奇心をくすぐる濃密な作品だったが、こうした個性的な映画にふさわしい映画館がその頃の日本にはなかった。

70年代後半の洋画界は莫大な宣伝費を投じることで『スター・ウォーズ』(77)や『未知との遭遇』(77)のような大作をヒットさせていて、大衆にアピールしにくい地味な作品は冷遇されていた。

「あの頃、藤沢や大宮などの2番館でいきなりスプラッシュ公開される洋画もけっこうありましたよね」寺尾さんはそんな風に当時の洋画状況を振り返る。

通常の洋画は東京のロードショー館でまずは1本立てで封切られ、その後、2本立てとなって地方興業されていた。しかし、興行的に厳しいと判断された作品は、最初から2本立てにまわされた。ちなみに今では巨匠となったマーティン・スコセッシ監督の初期作品『明日に処刑を…』(72)も、通常のロードショー公開はなく、いきなり2本立ての映画館で投げ売り(?)されていた。

ヨーロッパ映画にとっても状況は厳しく、海外でヒットしても、日本で売りにくそうな作品は輸入されなかった。『ジェラシー』を撮った英国のニコラス・ローグの場合、前作『地球に落ちて来た男』(76)は銀座の東劇などでロードショー公開されたが、興行的には不振のまま、3週間で打ち切られた(私もガラガラの映画館で見た覚えがある)。

『ジェラシー』も一歩間違えれば、同じような運命をたどったかもしれないが、幸運にも時代が少しばかり動いていた。

鉄道会社の東急電鉄をバックに持つ東急レクリレーションによる「シネマスクエアとうきゅう」誕生のいきさつについて、寺尾さんはこう振り返る。

「当時、この会社から新しい劇場を作りたいので、ヘラルド・エースに手伝ってほしいと打診があったようです。場所は歌舞伎町(東京・新宿)のミラノ座のあるビルですが、『シネマスクエアとうきゅう』ができる前は倉庫か何かで、使われていなかったスペースを改築して劇場にしたようです。思えばウナギの寝床のように長い不思議な形の劇場ですよね。かける映画はエースの責任者だったプロデューサーが各映画会社をあたって眠っていた作品を探していました」

ハリウッド系の大手洋画配給会社にはお宝映画が眠っていて、そうした作品にはすでに日本での上映権があり、プリントも到着しているので、字幕さえつければすぐに公開できる。通常の洋画公開は、まず日本での配給権の交渉から進めなくてはいけないが、そうしたプロセスをカットできるので、ひじょうに効率のいいやり方だ。

その結果、CIC(後のUIP)からは『エイリアン』(79)で一躍有名になったリドリー・スコット監督のデビュー作『デュエリスト/決闘者』(77)やテレンス・マリック監督の幻の名作『天国の日々』(78)などが海外での公開から数年遅れで陽の目を見ることになり、後にワーナー・ブラザースからはシドニー・ルメットがヒット舞台を映画化したマイケル・ケイン主演の『デストラップ・死の罠』(82)、コロムビア映画からはアルバート・フィニー主演の『ドレッサー』(83)といった作品が発掘されることになる。

エースが声をかけた会社はハリウッド系だけではなく、東映が持っていたソビエト映画『モスクワは涙を信じない』(79)、大映のハンガリー映画『メフィスト』(81)といった2本のアカデミー外国語映画賞受賞作も蔵出しとなる。

「シネマスクエアとうきゅう」が入る歌舞伎町の東急ミラノビルには大劇場のミラノ座をはじめとするいくつかの映画館が入っていて、映画ファンにはすでに名前が浸透していた建物だ。その3階のデッドスペースを224席の映画館に変えることで、この新しい劇場は世界中の埋もれた名作を上映できる映画館をめざすことになった。

先駆的なミニシアターだった神保町の岩波ホール、六本木の俳優座シネマテン、渋谷のPARCOスペースパート3などは、多目的ホールや演劇の劇場を映画館として利用することで生まれた場所だが、「シネマスクエアとうきゅう」は最初から映画の常設館をめざした初めてのミニシアターだ。

『ジェラシー』がオープニング作品に決まり、81年12月の封切りに向けて、東急レクリエーションとヘラルド・エースはさらに新しいアイディア盛り込んだ映画館作りに挑戦することになる。


◉向かいにあった新宿コマ劇場が現在取り壊され、空間の様相が著しく変化するなか、
 シネマスクエアとうきゅうは歌舞伎町の夜にいまも光を放っている
大森さわこ
80年代より映画に関する評論、インタビュー、翻訳を本や雑誌に寄稿。ミニシアター系のクセのある作品や音楽系映画の原稿が多い。人間の深層心理や時代の個性に興味がある。著書に『ロスト・シネマ~失われた「私」を求めて』(河出書房新社)、『映画/眠れぬ夜のために』(フィルムアート社)、『キメ手はロック! 映画101選』(音楽之友社)、訳書に『ウディ・オン・アレン』(キネマ旬報社)、『カルトムービー・クラシックス』(リブロポート社)等がある。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「週刊女性」、「キネマ旬報」等に寄稿。芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」では、主力執筆陣の一人として筆をふるっている。
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