ミニシアター再訪



80年代半ばから後半にかけて、渋谷の桜丘町にあったミニシアター、ユーロスペースの事務所によく足を運んだ。劇場は南口の歩道橋に近い東武富士ビルの2階にあったが、事務所は少し離れたところにあり、住宅街の中に建つマンションの一室だった。

ユーロスペース(以下、ユーロと表記)に行くと、世界中のインディペンデント映画界の新しい鼓動が感じられた。(前回、取り上げた)KUZUIエンタープライズのオフィスには映画や音楽、アートなどニューヨークを中心とする都市文化の風が吹いていたが、ユーロのオフィスではマイナーながらもこれからの時代をリードしそうな新鋭監督たちの作品をめぐる刺激的な話題が飛び交っていた。

まだ、インターネットはなく、こちらが海外の雑誌や新聞から得た情報を携えて行くと、スタッフは映画祭やマーケットなどで入手した未公開作の資料を見せてくれた。そんな情報交換を通じて、配給会社や劇場と人間的なコミュニケーションが成立していた時代だった。

創業者の堀越謙三社長はよくこう言っていた。
「うちは業界の“離れ小島”だから」

80年代は大手洋画メジャー会社が全盛期で、そんな会社と比較すると、配給会社としてのユーロの規模は小さく、また、配給した映画をかける劇場も75席とささやかなスペースだった(86年までユーロは映画の興行組合にも入っていなかった)。しかし、小規模だからこそ実現できる常識にとらわれない企画が若かった私の知的好奇心をくすぐった。

86年にリットー・ミュージックから刊行されたムック、『ザ・カルト・ムービー・ビデオ』で、当時、ミニシアターの運営や配給にかかわっている関係者たちに私は取材を行ったが、その中には堀越社長もいて、彼はこんな発言を残している――「ヘソ曲がりな性格だから、人がしないことをやりたいんだよね。昔は日本ではヨーロッパのものが見られなかったから、〔ドイツの新しい映画を〕買って自主上映の形で出していた。ミニシアターって、映画状況の中で欠落した部分を埋める役割を背負わされていると思う」

このスペースの始まりは82年からで、当初は映画の常設館ではなく、コンサートや講演なども行う多目的ホールだった。初めて上映された映画はドイツ映画の『ある道化師』(主演はドイツのカルト的なスター、ヘルムート・グリーム)。75年に作られたインディペンデント映画で、7年遅れで日本公開となった。堀越社長は4年間暮らしたことのあるドイツで、ヴィム・ヴェンダース、ヴェルナー・ヘルツォーク、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーといった“ニュージャーマン・シネマ”と呼ばれる流れから出た戦後派監督たちの傑作に出会った。ユーロの前身は欧日協会という団体で、70年代はこうした監督たちの日本未公開の代表作をホールなどで映画祭の形で上映している(かつて欧日協会は語学学校の欧日協会、留学事業を扱う欧州倶楽部、映画上映やコンサート等を行うユーロスペースの3つの部門から成り立っていたが、85年に独立している)。

発足時のユーロでは『リリー・マルレーン』(81)などが話題を呼んでいたファスビンダー監督の未公開作の上映も行われた。『シナのルーレット』(76)やファスビンダーも含む3人の監督によるオムニバス映画『秋のドイツ』(78)なども本国公開から数年遅れで日本上映に踏み切る。そのファスビンダー監督が40本映画を残して82年に36歳で亡くなると、彼の追悼の意味も込めて貴重な研究書、『R・W・ファスビンダー』(ヴォルガルフ・リマー著/丸山匠訳/欧日協会刊)も出版した(印刷物に凝るのが、当時のミニシアターの特徴でもあったが、ユーロスペースは、作品ごとにムックのようなスタイルの分厚いパンフレットを作っていた)。

こうしてヨーロッパのアート系映画の流れにカルトムービー系の流れが加わったのが85年2月のこと。まずはシャムの双子兄弟の復讐をテーマにした奇妙なホラー映画、『バスケットケース』(82)がレイトショーで上映されてマニアの間でひそかな話題を呼ぶ。私が劇場を初めて訪ねたのも、この作品が上映された時だ。こちらは海外では深夜映画(ミッドナイト・ムービー)として上映されて人気を呼んだ作品で、グロテスクな映像ながらもブラックな遊び心があった。当時、レイトショーの番組セレクションを担当していたのは、元・天井桟敷のスタッフだった山崎陽一さんだった。堀越社長はヨーロッパの重めのアート系映画を好んでいたようだが、山崎さんは得体の知れないいかがわしい雰囲気の作品を愛していて、彼の参加でユーロのラインナップにカルト的な味わいが加わる。

山崎さんの後、ユーロに参加したのが、法政大学のシネマクラブに参加していた北條誠人さんだ。法政は水道橋にあるフランス語の学校、アテネ・フランセ文化センターの隣にあって、アテネの映画上映のスタッフとも交流があったという。

そのスタッフを通じてユーロが人材を募集していることを知って入社。学生時代は雑誌『宝島』などを読んでミニシアター系作品にも興味を持ち、フィルムセンターで日本の実験映画なども見ていたという北條さんの加入で、映画館としての個性はさらに広がる。北條さんは87年に劇場支配人となり、以後、現在まで25年以上に渡って支配人を務め、現場の移り変わりを見ている。

そんな北條支配人にミニシアターの流れについて話してもらうことになった。

◉当時のミニシアターはカタログに凝っていたが、ユーロスペースの場合はその厚さが特筆に値する。巻末のページを開くと、刊行物のラインナップの充実ぶりも分かる(サインはアレックス・コックスが筆者に贈ったもの)
古い知り合いなので、遠慮なく質問のボールを投げると、軽妙なユーモアと鋭い考察で、支配人はボールを返してくれる。

東京のミニシアターの成り立ちについて話していて、劇場には主にふたつの流れがあることが分かった。ひとつは自主上映のシネクラブなどを経て、映画の配給やミニシアター作りにたどりついたケース。欧日協会として未公開のドイツ映画を配給してきたユーロも、この流れを汲んでいる。こうした流れの先駆的な劇場には70年代にスタートした岩波ホールがある。また、内外の実験映画を中心にした自主上映を行っていた映画学校のイメージ・フォーラム、前述の語学学校、アテネ・フランセ文化センターなども、シネクラブの流れを組む上映スペースだ。後にミニシアター・ブームの中心となる配給会社、フランス映画社の経営者、柴田駿社長や故・川喜多和子副社長もシネマクラブの活動を経ている。

一方、商業的な枠組みの中から出てきたのが、東急エージェンシーが始めた先駆的なミニシアター、シネマスクエアとうきゅう(新宿)と西武流通グループが始めたシネ・ヴィヴァン・六本木だった。すでに紹介したように、前者は81年、後者は83年に産声を上げている。

「岩波ホールは“マイノリティの表現”というか、ビジネスになりにくい題材の映画や小さな国の作品、社会的な内容のものを紹介していました。たとえば、ポーランドのアンジェイ・ワイダやインドのサタジット・レイなどの監督作品です。岩波書店が背景にあり、社会運動体としての意義がありました。シネマスクエアは女性の視点で作品を選んでいましたが、80年代初頭はそんなセンスが当時としては珍しかった。“〔劇場の〕椅子から考えました”というコンセプトや〔ハンドバッグに入るサイズの〕パンフレットという発想にも女性客を意識した視点が出ています。シネ・ヴィヴァンはアート性にこだわっていて、そこが新しかった。ジャン=リュック・ゴダールやダニエル・シュミットといったヨーロッパの知的な映画を上映していましたが、浅田彰や中沢新一などニュー・アカデミズムの本が盛り上がっていたので時代に合っていました。堀越社長はミニシアターの第一世代ですが、僕は第二世代。学生時代にシネ・ヴィヴァンなどが作りだした新しいアート系映画の中で育つことができたので、ラッキーだったと思います」

東京のミニシアター創生期について北條支配人はそう振り返る。

ユーロもアート系映画を上映していたが、75席のユーロと143席のシネ・ヴィヴァンでは、キャパシティが異なる。

「西武デパートの流通に勢いがあった中から出てきたのがセゾン文化なら、ユーロは産地直送の八百屋というか、ガンコじじいのこだわりのラーメン屋みたいなかんじでした。80年代の前半から中盤を振り返ってみると、あの頃は映画を映画館以外の場所で上映してもいいという風潮が出てきて、反核をテーマにした『アトミック・カフェ』(82)などを下北沢の芝居小屋、ザ・スズナリで83年に上映して話題を呼んでいました。また、吉祥寺に以前からあった映画館、〔吉祥寺〕バウスシアターにも、これまでとは違うことをやってみたいという気持ちが芽生えたようです」

その結果、バウスシアターでは(前回紹介した)トーキング・ヘッズのライブ映画『ストップ・メイキング・センス』(84)が上映され、興行的に成功している。

「映画上映に関して自由な気風が広がったおもしろい時代でした。どこかパンク・ムーブメントのような動きだったと思います」

映画の興行にはそれまで古い取り決めがあり、上映される作品や上映期間や上映時間に対して縛りもあったようだ。しかし、タテマエ(興行界のルール)はいったん捨て、ホンネ(作品の中身)で上映作品を選ぶ。そんな動きが生まれ出したのも、この時代だった。従来の上映形式からの解放。それを北條さんはパンクと表現したのだろう。

「80年代と90年代のミニシアターには、何をやっても許される雰囲気がありました。円高も背景にあるのかもしれないです。90年代は円が100円を切るか、切らないか、という時期があり、私たちのように小さな規模の会社でも買い付けができるようになったわけです」

自由な雰囲気と経済的な追い風が吹く中、ユーロスペースは、85年6月から映画だけを上映する常設館となる。その記念すべき最初の作品となったのが、デヴィッド・クローネンバーグ監督の『ヴィデオドローム』(82)だった。近年ではカンヌ映画祭の審査委員長もつとめ、カナダが生んだ偉大な巨匠監督として認知されているクローネンバーグであるが、(日本では)80年代半ばまでは一部のホラー・ファンに人気のある風変わりな鬼才という立ち位置で、一般には認知されていなかった。

『ヴィデオドローム』の日本での上映権を持っていたのは、日本のメジャー系洋画会社だったが、内容が過激すぎて、拡大系映画館に不向きと考えられたせいか、公開が見送られていた。

主人公はポルノ映画を上映するケーブル・テレビの社長(ジェームズ・ウッズ)で、彼はヴィデオドロームと呼ばれる危険な内容の番組にのめり込み、やがては殺人事件へと巻き込まれる。視聴率競争のため、より過剰な番組作りへとエスカレートしていく当時のメディアを風刺した内容にもなっている。作品の奥には知的な哲学性が潜んでいるが、表向きはエログロの要素がたっぷり。暴力シーンやSM的なセックスに始まり、遂には男の裂けた腹部からドロドロに変質した銃が出てくるという(監督好みの)グロテスクな表現も盛り込まれる。

ユーロはそんな危ない個性を持つ映画をあえて常設館の第1回作品(配給も担当)に選んだ。それというのも、アメリカの輸入ビデオが日本のマニアの間でひそかな人気を呼んでいて、そこに可能性を見出したのだろう(私も最初はノースーパーの画質の悪い輸入ビデオで見た覚えがある)。

「当時、ホラーやSF映画のジャンルが日本でも人気が高かったので、これは“くるかな”と思って公開したんでしょう。ただ、堀越社長や山崎さんは公開前には悲壮感があり、入るかどうか内心では心配していましたが……」と北條支配人は当時を思い出して苦笑する。

ユーロの賭けは吉と出る。15週間のロングランとなり、1万4000人を動員、1700万円の興収を上げることができた。ただ、ヒットしたといっても、75席の小さな劇場での出来事。しかも、劇場が興行組合に入っていなかったせいか、私が参加している映画雑誌(『スクリーン』)のベストテンでは85年の洋画封切りリストには入っておらず、この作品に投票することはできなかった(当時のユーロの“離れ小島”ぶりが分かるエピソードかもしれない)。

ちなみに昼間の『ヴィデオドローム』と並行して、レイトショー公開されていたのが、(今も)根強い人気を誇るローラン・トポール原作のシュールなフランスのアニメーション、『ファンタスティック・プラネット』(73、ケイブルホーグ配給)。こちらの入りも好調で、ユーロは常設館として順調なスタートを切った。

それから2年後の87年6月──。クローネンバーグ作品が再びこの劇場のスクリーンを飾ることになる。『ヴィデオドローム』の後に撮った『デッドゾーン』(83)が行き場を失っていたからだ。この作品は85年(5~6月)に渋谷のパンテオンという大劇場で行われた第1回TAKARAファンタスティック映画祭(当時は東京国際映画祭の一環として行われた)で上映され、クローネンバーグ監督も初来日を果たして、再び、マニアの間で話題を呼んだが、その後、一般公開のメドがたたず、再びユーロが受け皿となった(配給は東北新社)。
◉TAKARAファンタスティック映画祭のパンフレットに掲載された若かりしクローネンバーグのインタビュー(左)と、『デッド・ゾーン』公開時のパンフレット(右)。
今、考えると、そんなにマイナーとは思えないこの作品が2年近く日本でオクラになっていたことが不思議で仕方がない。原作は当時、最も人気の高かった売れっ子ホラー作家のスティーヴン・キング。そんな彼の最高傑作といわれるベストセラーの映画化だ。主演は『ディア・ハンター』(78)でアカデミー賞を受賞していた人気男優のクリストファー・ウォーケン。しかも、『ヴィデオドローム』のように過激すぎる表現もなく、時おりショッキングな映像が出てくることはあっても、抑制のきいた演出だ。映画のタッチが地味すぎたのだろうか? 拡大系でかけるには渋すぎるし、ミニシアター系でかけるには商業映画すぎる。興行的には中途半端な立ち位置にいた作品なのだろう。

主人公は小さな町で平凡な人生を送る国語の教師(クリストファー・ウォーケン)で、ある夜、交通事故に遭い、昏睡状態となる。5年後に目覚めた彼は、未来を透視できる不思議な能力を身につけている。しかし、そんな特殊能力とひきかえに、彼は最愛の恋人と結ばれるチャンスを失い、学校の仕事もなくし、家にひきこもって孤独な人生を送る。超能力という荒唐無稽な設定も入っているが、映画の中心にあるのは人生のやるせない喪失感であり、アウトサイダーとなった男の痛ましい内面だ。やがて、自身の特殊能力に対する責任感にめざめた主人公は、世界を破滅に導く可能性がある政治家の暗殺を決意するが、その悲しみが深すぎるからこそ、彼の大胆な決断にも納得がいく。また、風刺的に登場する政治家の裏の顔にもぞっとさせられる(現代の政治家にも通じる描写だ)。

この作品について北條さんは振り返る。

「ファンタスティック映画祭で見て、上映したいという気持ちがありました。『ヴィデオドローム』より分かりやすい作品でした。その後、東北新社から話をいただいて上映が実現しましたが、こちらも興行は成功でした。とても文学性の高い作品だと思います。原作がスティーヴン・キングということもあります。当時のアート系映画は文学に近づいていたと思います。そういえば同じ渋谷で上映された『ホテル・ニューハンプシャー』(シネマライズにて86年に上映)はジョン・アーヴィングの原作の映画化で、こちらが芥川賞的な感覚の文学だとすれば、キングは直木賞的な内容でしたね」

『デッドゾーン』は今も心をゆさぶられる作品で、ハマリ役のクリストファー・ウォーケンの哀しげな表情がいつまでも脳裏に焼きつく。当時の劇場パンフレットではライターの三留まゆみが「クローネンバーグ監督の幻の傑作『デッドゾーン』(某映画会社のフィルム倉庫で永遠の眠りにつこうとしていたんですよ)は未来を見てしまった男の物語だ。〔中略〕なんてたっていいのはウォーケンの笑顔で、どこかしら淋しい少年のような無邪気な笑顔を見たとき、この映画は成功だ! と思った」と印象的な文章を残している。

当時は新鋭監督だったクローネンバーグは危険な感性を持っていて、ダークで破滅的な世界を好んで描いていた。彼の風変わりな個性が商業映画館での興行をむずかしくしていたのだろう。

ちなみに『デッドゾーン』の興行は1カ月強の限定公開であったにもかかわらず、1万人を動員し、1200万円の興行収益を上げた。この好成績を受け、その後は池袋の劇場、テアトル池袋へのムーブオーバーも実現している。

『デッドゾーン』が公開時の87年にユーロスペースは遂に映画の興行組合に入り、関係者との横のつながりも意識するようになった。北條さんが支配人となったのはこの映画からで、この年を「ミニシアターの第一次ピーク」と呼んでいる。

確かにこの年、ユーロの公開作だけを考えてみても質の高い映画が続々と公開されている。パンク的な感性を映画に持ち込んだアレックス・コックス監督の風刺精神あふれるSF『レポマン』(84)、シンメトリーの構図にこだわり、モノが腐るプロセスを奇妙な美意識で映像化した英国のピーター・グリーナウェイ監督の『ZOO』(87)、今では世界的な監督となったデンマークのラース・フォン・トリアー監督がオレンジの色彩にこだわった幻惑的なフィルム・ノアール、『エレメント・オブ・クライム』(84)。挑発的な才人監督の日本での初登場の場をユーロが提供している。

さらに86年にわき起こったニューヨーク・インディーズ映画の新鮮な流れを反映し、スパイク・リー監督の学生時代の映画『ジョーズ・バーバーショップ』(82)もレイトショー上映され、ジョン・セイルズ監督の4年間オクラだった青春映画『ベイビー・イッツ・ユー』(83)も配給している(前年にはセイルズの出世作『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』〈84〉もユーロで上映)。『ベイビー・イッツ・ユー』は自分の劇場ではなく、シネ・ヴィヴァン・六本木での上映が実現した。
◉『満月の夜』のパンフレット。ビジュアルのアート性が印象深い
シネ・ヴィヴァンとの協力関係が生まれたのも、この年のユーロにとって忘れがたい出来事のひとつで、10月の『ベイビー・イッツ・ユー』に先駆け、1月に同劇場で封切られたのは、エリック・ロメール監督が男女の心の機微を描いた美しい作品、『満月の夜』(84)。ロメールはアテネ・フランセのような特殊上映の会場では人気を得ながらも、日本の商業劇場では無視され続けてきたフランスの伝説的な作家で、この作品の成功以後、シネ・ヴィヴァンの看板監督のひとりとなる(その後の作品は主にシネセゾンが配給)。

「『満月の夜』の場合は、シネ・ヴィヴァンの塚田支配人がどうしてもうちで上映したい、と言ってくれたので、こちらに出しました。劇場を持っているところからオファーが来たのは初めてでしたが、これがあったので、その後はシネマライズや恵比寿ガーデンシネマなどにも作品をかけることになり、ミニシアターの中のネットワークみたいなものにも入っていけました。こうしたことがないと、産地直送の野菜を供給する八百屋で終わっていて、もっとチマチマやっていたかもしれないです。映画を見せるという気迫というか、勝負感が薄くなったかもしれない」

北條支配人にいわせると、劇場側の人間にはいくつかの“責任”がある。

「まずは劇場として何を選ぶのかということがひとつあります。もうひとつはそれを選ぶことで収支が合うのかという責任。配給会社から作品を預かる場合は、その会社に対しても責任があります。その作品の成績がかんばしくなかった時、そのことが事前に分からなかったのか、という連帯責任みたいなものもありますね」

さらに作品のクオリティに対する責任とビジネスに対する責任も意識している。

「自分がおもしろいと思っても、それは自分がマイナーな人間だから、おもしろいと思っているだけで、文化として成り立たないだろうと思うところもあります。また、これは〔人が〕入るだろうと思っても、内容が薄っぺらいものもあるんです」

文化として、あるいは興行としての責任を背負いつつ、その作品にとってベストな上映形態についても考える。

「『満月の夜』がそうでしたが、もっと大きく見せられる可能性を持った作品は、大きく見せていくことも必要ですね。自分の劇場や仲間を守ることも大切ですが、もっと大きく踏み出せる可能性があって、協力してくれる人がいるのであれば踏み出す方が、監督にとっても、作品にとっても、自分たちにとってもいいと思います」

87年は劇場でのラインナップも充実し、他劇場との協力関係も生まれ、ユーロスペースに勢いが加わった年だったが、8月には“事件”と呼びたいことも起きている。

原一男監督のドキュメンタリー、『ゆきゆきて、神軍』(87)が上映されたのだ。当時、社会現象も呼んだこの作品の公開で、ユーロは新たな挑戦に向き合うことになる。

(次回に続く)
◉現在、ユーロスペースは東急文化村から至近の距離へと場所を移している。東京都渋谷区円山町1‐5 KINOHAUS 3F(劇場)4F(事務所)/☎03-3461-0211

大森さわこ
80年代より映画に関する評論、インタビュー、翻訳を本や雑誌に寄稿。ミニシアター系のクセのある作品や音楽系映画の原稿が多い。人間の深層心理や時代の個性に興味がある。著書に『ロスト・シネマ~失われた「私」を求めて』(河出書房新社)、『映画/眠れぬ夜のために』(フィルムアート社)、『キメ手はロック! 映画101選』(音楽之友社)、訳書に『ウディ・オン・アレン』(キネマ旬報社)、『カルトムービー・クラシックス』(リブロポート社)等がある。雑誌は「ミュージック・マガジン」、「週刊女性」、「キネマ旬報」等に寄稿。芸術新聞社の「アメリカ映画100シリーズ」では、主力執筆陣の一人として筆をふるっている。
Twitterアカウント ≫ @raincity3
ブログ(ロスト・シネマ通信 (=^・^=)大盛招き猫堂)≫ http://blogs.yahoo.co.jp/raincity3