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前回
vol.20の「木のはなし」
に続いて、お約束通り今回はさらにその源「山のはなし」をしたいと思う。
仕事柄毎日のように木材と格闘しているわりには、東京に工房を構える自分にとって山や森はちょっと遠い存在だ。だからこそドライブや旅先でたまに緑を目にするとそれは気持ちのいいもので、しかも季節によって様々に表情を変える木々達を見るごとに「あ〜、日本に生まれて良かったなぁ」なんて決まり文句のひとつも呟いてみたくなる。
ひとたび高速道路や新幹線に乗って東京を飛び出すと、やがて窓の外には青々とした山並みが続く。そう、日本はとっても緑豊かな国で……ん?……そうだよね?……え?……違うの?
はい、今回はそんなお話。
さて皆さん、我が国日本は国土に対して緑は多い国だとお思いだろうか?(※右図1参照)
うん、画像を見てもらえば一目瞭然のこと、実に緑の多い国だ。けれど「じゃあ緑豊かか?」といえば、これは話がまた別だ。衛星写真ではこんなにも青々とした国土だけれど、このうちの約90%を実は人工林が占める。ちょっとショッキングなデータだけれど……いえいえ、誤解しないでもらいたい。“人工”なんていうと悪いイメージに聞こえるけれど、一度でも人の手が入った山を人工林というのであって、キチンと手入れさえされていれば、それは必ずしも悪い事ではなく、むしろ健康に維持された森もたくさんある。
しかし、その逆、かつて人間が手を入れたものの、今では全く管理しきれなくなった放置林、いわゆる「荒れ山」。これは大変な問題で、実は人工林の約半分がこの荒れ山になっているのだ。
この話、ちょっと横に置いて……その前に……。
[図1]
樹は大きく分けて、「
(主に
、
、
など)」と「
(主に
、
、
など)」の2つに分類される。読んで字のごとく針葉樹の葉は細く、広葉樹の葉は幅広い。そして一番の違いは、ほとんどの「針葉樹」は
で、「広葉樹」は
であるということ(※一部、
、
、
などは広葉樹だけれども常緑樹であり、
のように落葉樹であるが、厳密には広葉樹にも針葉樹にも属さないものもある)。余談だけれど、秋に美しく色付く紅葉樹のほとんどは広葉樹であるが、紅葉しない広葉樹もたくさんあるので、誤解のないように。ややこしいね。
さて、人の目には「紅葉」は素敵なものだけれど、自然にとってはその後の「落葉」、これが重要となる。では何が重要なのか?
針葉樹と広葉樹とでは、まず葉の生え替わり方が違う。針葉樹は一年を通して少しずつ落葉し、また少しずつ新しい葉が芽生える。ゆえに常緑樹といい、それに対して広葉樹は秋から冬にかけてドサッと落葉し、春から初夏にかけて青々とした新緑の季節を迎える。ゆえに落葉樹と呼ばれるわけだが、この広葉樹の生み出す大量の落ち葉こそが自然にとっては大事な役目を果たすのだ。
地面に積もり積もったこれら落ち葉の間には、ミミズや蜘蛛やその他多くの昆虫や微生物が生まれる。そこに雨が降り、陽が差し込み、生き物の死骸や糞などと落ち葉とが混ざり合って、やがて「
」と呼ばれるものになる。そして腐葉土の中では同時に「フルボ酸」と呼ばれる成分が生まれ、フルボ酸は雨とともに地中に染み込むと、地中の鉄分と結びつくことで「フルボ酸鉄」という成分に変わる。そう、このフルボ酸鉄こそが自然にとっての陰の主役。縁の下の力持ちなのだ。
フルボ酸鉄はその後、地中から湧き水となって、清水となり小川から河川へと山を下り、やがて海へと流れ着く。すると、このフルボ酸鉄は豊かな海藻を育てる。正確には、フルボ酸鉄自体が海藻の栄養になるのではなく、海水に含まれるミネラルや、その他海藻の栄養となる成分の吸収をより活発に促す働きがあるのだ。豊かな海藻が育てば、そこに卵を産む魚が集まり、結果として、豊かな海となる。つまり、豊かな山、豊かな森を持っている国というのは同時に豊かな海を持っていて、逆にいえば海が枯れている国は、いくら海をキレイにしようとしても、それは山から手を入れ直さないと元には戻らないということ。自然というのはそれほどに大きなスケールで繋がっていて、そしてそれぞれ遠く離れた山と海とを密接に繋いでいるのが、この「フルボ酸鉄」なのだ。
ここまでの話では、じゃあ森にとっては落葉する広葉樹ばかりあれば良いように思われるかもしれないが、いやいや自然はそんなに単純なものではない。
ここで針葉樹と広葉樹の根の張り方についての話をしよう。樹木は見ての通り、巨大な生き物だ。それもそのはず、この地球上で最も大きく育つ生き物は樹木であり、上空から見たときに丸く大きく幹や枝や葉を延ばすその姿は「
(別名:クローネ)」と呼ばれ、まさに“冠”の称号を与えられるに相応しい雄大な存在だ。これほどに巨大で重たい体が、何故に山の急斜面でズレ落ちることなくそこに留まっていられるのか? もちろんそれは根が地中に張っているからなのだけれど、その張り方は樹によってそれぞれ違う。主に広葉樹は斜面に対して上へ上へと根を伸ばし、ズリ落ちようとするその巨体を上から引っ張り上げるように支えている。それに対して針葉樹は斜面より下へ下へと根を伸ばし、下から押し上げるように、巨体を支えているのだ(※右図2参照)。
このように、上へ根を張るもの、下へ根を張るもの、深く根を張るもの、浅く根を張るもの、それら様々な木々の根が地中で複雑に絡まり合って、そうしてしっかりとした土壌を作り上げている。これを「
(※
ともいう)」といい、この状態こそ、まさに自然な森の姿なのだ。
しかし、もし山が同じ広葉樹ばかり、または針葉樹ばかりだったとしたらどうなるだろう? みな同じ方向にばかり根が張っていては、根もしっかりと絡まり合うことがないので土壌は不安定になる。しかも一方向にばかり伸びた根でなんとか支えている土壌は、地中に染み込んだ雨水をそこに留めることが出来ず、結果、ちょっとした雨や台風でも大水になったり、簡単に土砂崩れなどを起こすこととなる。
[図2]
さあ、ここで我が国日本の森を見てみよう。真っ直ぐに整然とキレイに立ち並ぶ杉林。新幹線の窓や高速道路脇で良く見かける日本の景色だ。一つの山に一種類だけの木々。この自然、なんとも不自然だとは思わないだろうか? もちろん森は最初からこんな不自然な姿をしていたわけではない。
日本が高度経済成長を遂げる昭和30〜40年代、当時の建設省(現在の国土交通省)は30年後を見据えて建築材となる杉や松や檜などを大量に植えるよう、農林省(現在の農林水産省)に指示を出す。そして農林省から林野庁、営林署と指示が下り、山の所有者である林業家達はいわれるままに植樹を始めるのだ。その後の我が国の経済発展はいうまでもないが、この時、農林省や建設省は大きな間違いを犯すこととなる。いや正確には、この時はまだそのあやまちに気付いてはいなかったのかもしれない。
経済が発展を続ければ、自ずと海外との関係性、つまり経済摩擦によって安価な外材が大量に日本国内へと輸入されてくる。逆に国内の人件費、運搬費、その他全ての経費は高騰してしまい、その結果、切り倒した樹を山から原木市場(一番始めに木材の値段が付く場所)へと運び下ろすだけで、赤字となってしまうのだ。そんな理不尽な状況では林業家は激減する一方で、やがて手入れの行き届かなくなった山々は放置林となっていく。
このような悪循環はその後もさらに加速し、昭和45年当時、日本全国に25万人居たといわれる林業家は、現在では約3〜4万人ほど。いや、今日もその数は減り続けているだろう。しかもその平均年齢は50歳以上。ただでさえ重労働を強いられる林業家の現実は、いうまでもなくますます厳しいものとなる。
その一方で、当時の建設省や農林省にとっては、いずれ国産材を使おうというアテは外れたものの、安い外材を輸入して結果見事に経済発展したのだから、自分達のミスはミスとも思っていなかったに違いない。
けれど……けれど、なのだ。散々、杉や檜や松などを植えられた山はどうだろう。冒頭、国土の約90%が人工林と書いたが、そのほとんどが、そう、建築材のための針葉樹なのだ。山はすっかりそのバランスを崩し、“木材生産場所”としても用無しとなり、ただただ不自然な姿のままに手入れもされずに放置されている。崩れてしまった自然は、国がどれだけ経済発展を遂げようと決してチャラにはならないのだ。
そして現在。
国はようやくそのことの重大さに気付き、ここ数年少しずつではあるが「森林環境税」を導入する地方自治体も増えてきた。森林環境税とは、山の所有者個人では限界があった手入れ(間伐や良質な苗木の植樹、作業路の整備、公的管理が必要な森林の取得など)を税金で補おうというものだ。かつて“木材生産場所”としての意識しかなかった山や森林を、我々が生活している“環境”として考えられるようになってきたことは、日本人の大いなる前進だと思う。また、良くも悪くも外材と国産材の価格差も以前に比べ大差なくなってきた。そしてこれから先、大事なことは、いかにバランス良く国産材を消費していくかということ。昨今やたらと「エコ」が叫ばれているけれど、決して「森林伐採イコール環境破壊」ではないということだ。歴史を辿っても、我が国日本は木造建築や木材加工と共に発展してきたように、本来、山や森とは上手に付き合うことの出来る民族なのだから。
さあ、いま一度考えてみたい。
「今の日本は緑豊かな国」なのだろうか?
きっと自分も木彫家という仕事に就かなければ、他人事のように遠く田舎で起こっている問題程度にしか考えなかっただろう。旅先、痩せ細った針葉樹の森の中で「自然はいいなぁ」なんて、ノンキに深呼吸でもしているに違いない。
この仕事を通して木材業の方々から聞く生の話は、ニュースやネット上で得る情報とは比べモノにならないほどドラマチックでストレートだ。
自分にとって木は作品を作るための材料、すなわち木材。実にクールな関係だ。けれど彼らの話を聞くにつれ、自分の中に眠る木々への信仰というものがフツフツと目を覚ます。自分が日本人であることを痛切に感じる瞬間でもある。
うん、最近ますます“樹”や“森”が面白く思えてきた。だからこそ“自然”という言葉が“不自然”なものを示す言葉へと変わってしまうその前に、我々の意識から少しずつ変えていかなければならない。
将来我が国が“自然な自然”を取り戻すために──。
(2009.05.02 おおもり・あきお/彫刻家)
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※文中記載の様々なデータや数値につきましては、木材業者や親交のある職人さんなどから伝え聞いたものです。彼らは、それぞれの経験から得た知識を軸としているため、データや数値については他の情報機関の発表や公の調査内容とは若干の誤差が生じる場合もあります。ご了承ください。